兵庫県 播磨町 公開日: 2025年09月19日
日本の新聞史を築いた男!漂流からアメリカ市民権、そして「新聞誌」創刊まで―ジョセフ・ヒコの波瀾万丈な生涯
ジョセフ・ヒコ(幼名:彦太郎)は1837年、播磨国加古郡に生まれました。13歳で船に乗り江戸へ向かう途中、遭難し52日間漂流。アメリカに救助され、サンフランシスコへ。そこでダゲレオタイプで撮影され、新聞に掲載されるなど話題になりました。アメリカ政府は帰国を支援しようとしましたが、ヒコはトーマスの勧めもありアメリカに残留。税関長のサンダースに認められ秘書として働き、カトリックの学校に通い、1854年に洗礼を受け「ジョセフ・ヒコ」と改名、1858年には日本人として初めてアメリカ市民権を取得しました。1859年に帰国し、アメリカ領事館通訳を務めた後、再び渡米。リンカーン大統領とも会見しました。1862年に帰国し、1864年、日本で初めての新聞「新聞誌」(後に「海外新聞」と改題)を創刊。外国の情報を翻訳し、ひらがな交じりの平易な日本語で発行しました。木版刷りで26号まで発行され、広告掲載なども行うなど、日本の新聞史に大きな足跡を残しました。その後も、高島炭坑の共同経営や大阪造幣局設立にも関わり、1897年に60歳で亡くなりました。

波乱万丈の人生ですね。13歳で漂流、アメリカで市民権取得、そして日本の新聞史に貢献… 彼の行動力と適応力、そして時代の変化を受け入れる柔軟さに感銘を受けました。特に、ひらがな交じりの平易な日本語で新聞を発行したという点に、当時の国民への情報伝達への強い意志を感じます。単なるサクセスストーリーではなく、時代の狭間で懸命に生きた一人の人間ドラマとして、とても興味深く読みました。
そうですね。確かに、並外れた経験と、それを乗り越える強靭な精神力を持った方だったのでしょう。13歳で漂流というだけでも想像を絶しますが、その後も様々な困難を乗り越え、常に前向きに未来を切り開こうとした彼の姿勢は、現代社会においても学ぶべき点が多いと思います。ひらがなを交えた平易な日本語での新聞発行は、まさに先見の明があったと言えるでしょう。彼の努力によって、多くの日本人が世界への窓を開かれたわけですから、大きな功績だったと思いますね。
